tensainanachan’s diary

ワイン備忘録

記録

父が亡くなった。

突然の事だった。先々週、3月の末に飲み会があるから持っていくのにオススメのワインを教えてくれとメールで言われ、あれやこれや考えて何本もお勧めしたのに、「まあ、面倒だから、ユニバース(←近所のスーパー)で適当に買うことにします。」って返事が来て、ズコーッてなったのが最後のやりとりでした。

最後に父に会ったのは去年の11月。今年はお正月に帰れなそうだからと前倒しで帰っていた。盛岡駅前の盛楼郭で冷麺を食べ、高松の池を散歩し、実家で一泊、その後温泉に一泊。その後また冷麺を別のところで食べ、小岩井牧場に寄って散策した後、盛岡駅に送ってもらって「またね」と別れたのが生前の父に会えた最後になった。

一昨年、大事な友達を突然亡くした私は、その友達と会ってもなかなか自分たちの写真を撮っておらず(ごはんは撮ってるのに)すごく後悔していたので、ここ2年はよく人物の写真を撮影するようになっていた。それだけはよかった。父の遺影は私が撮影した写真になった。いい笑顔で、自分、よくやったと思った。

私がこうやってダラダラと文章を書くのは父譲りなのかもしれない。父が書いた旅行記(母と行った旅行の)を以前読まされたことがある。が、とにかく長い。全て細かく正確に書いてあるけど、あまりに単調すぎてつまらなく全部読めなかった。ごめん。(文章書くの好きなのは父譲りと書いたが、母も負けずに旅行記を書く人で、こっちのがもう少し面白い。いつも絵付きで製本までされてるのがまたスゴイんだ)。しかし、こんなに文書を書くのに、棺桶に入れる手紙を書きなさいと母に言われ、すごく単調なイケてない手紙を書いてしまった。ごめん。手紙は難しい。

父はとてもいい人だったと思う。父は幼い頃にその父を早くに亡くし、ミシンが壊れて困っている母親を見て、こういうのを直せるようになりたいと工学部機械科に進んだそう(泣ける...が、ホントか?)。結局大学の機械科の先生をやっていたけど、偉ぶらず、掃除のおじさんとも仲良しだった。家の中でも、昔は仕事が忙しくてなかなか家事はできなかったみたいだが、退官してからは料理にも挑戦していたし、母が料理をしたら必ず片づけをしていた。そういうところが大好きだったし、尊敬していた。

そんなに怒られた記憶はない。大学生の時、私が原チャリの交通違反家庭裁判所に呼ばれた時も、付き添いの父は、こんなとこ来ることなんて滅多にないからなーって珍しそうに石割り桜(盛岡裁判所の名物)ばかり見てて、それ以上は怒られなかった(わたしが十分に反省していたのもあるが)。

私が高校生の時は、父は単身赴任4年目?くらいで、寂しいからと母と妹を呼び寄せ、高3の私を放ったらかしにしたのもなかなかやるよね(大学1年生の兄と二人暮らしになった)。寂しかったのか...まぁそうだよねー。

中学生の頃、家族でアメリカに住んでいた時は沢山旅行に連れて行ってくれた。ニューヨーク、ボストンにあるあらゆる美術館、セイラム魔女裁判ミュージアムアーミッシュ村、中学生だったから記憶があやふやなのが勿体ない。ちゃんと何かに記録しておけばよかったと今大後悔している。

小さい頃はキャンプによく連れて行ってくれた。また、父はスキーがとても上手で(新潟育ち)小さい私を背負って滑って、突然転倒したことがあったな。私は背中からロケットのように空中に打ち上げられた瞬間のことをなぜかよく覚えています(結果無傷)。泳ぎも上手で、足が届かないレベルの海のかなり沖まで小さい私を背負って泳いでくれたこともあったね(あれは今考えると怖い。足でもつったらどうする気だったのか)。

一番幼い頃の記憶は何だろう。多分アレだ。私は小さい頃かなり困り者(好奇心旺盛なタイプ)だったので、山本リンダの「狙い撃ち」のリズムで「あここーあここーあこあここー、あここはホントに困り者〜♪」って替え歌を歌われてたことかな(幼き頃は「あっこ」と呼ばれていました)。そのせいで、山本リンダがテレビに出るたびにあのメロディとともに父を思い出します。

今思い出すのはこんなことくらいだ。泣いているところをかつてほとんど見たことがない気丈な母が今日はじめて泣いた。仲良しだったもんな。

父の死に顔は安らかだ。ピンピンコロリを望んでいて、見事にその通りやりおった。しかしあまりに突然で、本人も死んだのわかってないんじゃないかと思う。そして母も兄も私も妹も。